故宮日語(yǔ)導(dǎo)游詞
篇一:故宮の日語(yǔ)導(dǎo)游詞
故宮の日語(yǔ)導(dǎo)游詞
今日はこれから故宮へご案內(nèi)しますが、少し時(shí)間がございますので、故宮のあらましをご說(shuō)明したいと思います。
故宮とはその字が表すとおり古い宮殿という意味で、中國(guó)の明、清両王朝の皇居として建造されたものです。當(dāng)時(shí)は紫禁城と言っていましたが、1925年に故宮博物院と改められ、一般に公開(kāi)されるようになりました。
紫禁城の造営を命じたのは、明の第三代皇帝朱てい、つまり永楽皇帝です。今から600年前の1406年に造営が始まり、約15年間かかり、1420年に落成しました。その后、何回も立て直されたり、増筑されたりして、いまの規(guī)模になりましたが、ここで明、清両代に渡って24人の皇帝が全中國(guó)を支配していたのです。
紫禁城は昔の北京城、つまり北京の町の中央線上にその中心が來(lái)るように建てられていて、その建筑規(guī)模は世界に并ぶものがありません。しかも、中國(guó)において、最も完全に保存されている最大の古代建筑群です。紫禁城は長(zhǎng)方形で、南北960メートル、東西750メートル、敷地面積は72萬(wàn)平方メートル、建筑面積は15萬(wàn)平方メートルにも及んでいます。こんな広大な敷地の中を詳しくご覧になるのでしたら一周間ぐらい必要だそうです。そこで今日は特徴あるところだけに觸れ、実際に見(jiàn)學(xué)なさるときにまたその場(chǎng)でご案內(nèi)したいと思います。
まず、故宮を見(jiàn)學(xué)されるとどなたでもすぐ気付かれることは、一種獨(dú)特な色彩であることでしょう。宮殿全體を取りまいているのはベンガラ色の壁です。この色は単に美しいためばかりでなく、古來(lái)中國(guó)では尊さと豊かさを表すものとして、用いられてきました。また、夥しい建筑群の屋根は黃、綠、黒、紫などの瑠璃瓦が使われています。黃色は中國(guó)の五行學(xué)說(shuō)の中で中央の方角を代表しているので、皇帝の色とされてきました。ですから、皇帝の住まい及び政務(wù)を司る所の建物には全て黃色の瑠璃瓦を用いたわけです。皇子たちの住まいには黃色に準(zhǔn)ずる色として綠色の瑠璃瓦を用いていますし、文淵閣と名づけられている書(shū)物を入れておく倉(cāng)庫(kù)は、黒色の瑠璃瓦になっています。なぜ黒を使ったかと申しますと、黒は水を代表する色であったので、書(shū)庫(kù)を火災(zāi)から守るためだそうです。さて、故宮の中へ一歩足を踏み入れられますと、どなたもどのぐらいの部屋があるのだろうかと思いになることでしょう。実は、この広大な敷地の中には9000間以上あるといわれています。最もこの「間」というのは柱と柱の間を表す言い方ですので、実際にはずっと少なくなるわけですが、それにしても夥しい數(shù)に違いありません。數(shù)え上げるのに相當(dāng)な時(shí)間と根気がいるのです。
次にこれらの建物がどのように使用されてきたかについて、ざっとご說(shuō)明したいと思います。故宮は主に前朝と內(nèi)廷に分かれており、前朝は皇帝が厳かな式典を行い、権力を示す場(chǎng)所です!柑偷睢、「中和殿」、「保和殿」という三大宮殿を中心として、「文華殿」、「武英殿」が両側(cè)に立っています。內(nèi)廷のほうは「乾清宮」、「交泰殿」、「坤寧宮」及び「御花園」を中心に、両側(cè)には東西六宮などの宮殿が立ち并んでいます!盖鍖m」は皇帝が住んでいた所ですが、ここも日常の政務(wù)が執(zhí)り行われたり、大臣、部下や外國(guó)からの使節(jié)と會(huì)見(jiàn)する場(chǎng)所として使われていました!附惶┑睢工匣屎螭握Q生祝いの儀式を挙げる所ですが、ここには皇帝の権威を表す25個(gè)の玉璽、つまり印鑒が納められていました!咐帉m」は皇后の住まいとして使われた所です!赣▓@」はもちろん皇帝、皇后、妃、皇子たちの憩いの場(chǎng)所
篇二:曲阜孔子廟日文導(dǎo)游詞
曲阜孔子廟
皆様、こんいちは
今日は「孔子廟」をご案內(nèi)いたします。その前に曲阜について、簡(jiǎn)単にご紹介させていただます。
曲阜は山東省の省都―済南から南に160キロほど離れたところにあります.
「孔子廟」は曲阜市の中心部にあり、東洋の建築様式の大規(guī)模な建築群で、中國(guó)の歴史の王朝が孔子を祭る廟でした。
「孔子廟」は孔子が亡くなった翌年、魯國(guó)の王が孔子を祭るために建てられたものです。あのときでは部屋がろつしかない質(zhì)素な建物でしたが、明や清の時(shí)代に增筑が繰り返されたため、現(xiàn)在の大きさになりました。今のものは、大體明の時(shí)代の風(fēng)格を保っています。また、「孔子廟」の中には大量の貴重な文物や歴代の有名な石刻が2千百點(diǎn)收藏されています。
孔子廟の観光コースは一つしかありませんが、內(nèi)部の主な見(jiàn)所は3か所「奎文閣」、「杏壇」、「大成殿」です。ここで、順を追ってご紹介いたします。
まず、目に入るのは「萬(wàn)仞宮壁」です。これは「曲阜」の南城門(mén)にありました。明代の建物で、文字は清朝の乾隆が書(shū)いた者です。 こちらの「金聲玉振坊」は明代に造られたのもで、「孔子廟」の前門(mén)にあたります。「金聲玉振」というのは中國(guó)の古典音楽のプロセスを表します。ここでの「金聲玉振」という意味は孔子の思想は素
晴らし音楽のようのもので、初めてから終わりまで人類(lèi)の歴史を貫いていくというです。
「金聲玉振坊」をくぐり、小川に架かる橋を渡りますと「靈星門(mén)」に著きます!胳`星門(mén)」は「孔子廟」の玄関です。門(mén)上にある字は乾隆が書(shū)いたものです!胳`星」は天上の文化の星で、學(xué)問(wèn)を司るそうです。つまり、孔子は天上の星、神様にたとえられているのです。
私たちはもう聖時(shí)門(mén)、弘道門(mén)、同文門(mén)などをくぐりなした。ここは6番目の門(mén)である「奎文閣」です?拈wは宋代の創(chuàng)建で中國(guó)でも有名な木造建築物の一つとされています。昔の「奎文閣」は儒家思想に関する本の印刷や出版をする所で、孔家一族の祖先の肖像畫(huà)もここに保管されていました。また、皇帝から頂いた本や勅使などたくさん所藏されていました。
「奎文閣」をくぐりますと、その北側(cè)にある庭には、13の亭が2列に並んでいるのが見(jiàn)えます。それは「十三碑亭」とは石碑を持って亭で、石碑は合れせて53個(gè)あり、全部唐、宋、元、明、清、民國(guó)7代の王朝、國(guó)家が造った物ので、內(nèi)容はほとんど皇帝が孔子をたたえる祭文と「孔子廟」の度重なる改修の記事です。その中で最もたいものは唐の668年のもので、最も大きいものは65トンの重さも持っています。
ここは「杏壇」で、孔子が弟子が弟子に學(xué)問(wèn)を教えた所だそうです。宋の時(shí)代のはじめ、ここには「大成殿」があったのですが、宋の時(shí)
代の末に北に移し、ここに杏の木を植えて祭壇を造りました。さらに金だいに祭壇の上に亭を建てました。「杏壇」という篆書(shū)は當(dāng)時(shí)の有名な文人-黨懷英が書(shū)いたものです。亭の中には清の乾隆がみずから書(shū)いた「杏壇賛」という石碑があります。
「杏壇」から北を望みますと、大きな建物が目に飛んできました。ここは「孔子廟」の中心建物である「大成殿」です!复蟪傻睢工媳本─巍腹蕦m」にある「太和殿」、泰山の岱廟の「天 殿」と共に中國(guó)の「三大殿」と呼ばれています!复蟪傻睢工蔚钐盲畏9間あり、奧行きは5間の広さを持っています。東西の長(zhǎng)さは54メートル、南北は34メートルあり、庭の地面から計(jì)算すると、高さは33メートルもあります。
殿堂の前にまず中國(guó)といられる見(jiàn)事な「雲(yún)竜」が〇られている10本の柱が見(jiàn)えます。この石の竜の柱はほかでは見(jiàn)られない立派なものです。昔、皇帝が幸して祭りを行う時(shí)は黃色い絹で竜の柱を包見(jiàn)ました。それは竜の気勢(shì)が皇帝の宮殿を超えないようと配慮からだということです。それでは、自由に「孔子廟」をご覧ください。貴重品をお大事にしてください。バスは正門(mén)の右側(cè)に止まりますので、11時(shí)にバスに戻ってくださるようお願(yuàn)いします。
篇三:故宮日文導(dǎo)游詞
それでは、故宮博物院をご案內(nèi)いたします。
天安門(mén)をくぐり、300メートル進(jìn)むと、古い建築群があります。これこそ世界に有名な「故宮博物院」です。故宮は今まですでに600年近くの歴史があります。明代の永楽4年(1406年)に工事にかかり、14年間を費(fèi)やして永楽18年(1420年)にできあがったのです。主な三大殿は初めのうち奉天殿(ほうてんでん)、華蓋殿(かがいでん)、謹(jǐn)身殿(きんしんでん)と名づけられましたが、清代の嘉靖11年(1562年)皇極殿(こうきょくでん)、中極殿(ちゅうきょくでん)と建極殿(けんきょくでん)と改名されました。
現(xiàn)在の太和(たいわ)、中和(ちゅうわ)、保和(ほうわ)という名は清代の順治年間(1645年)から使われてきたものです。600年に渡る長(zhǎng)い歴史の中で故宮は地震や雷による災(zāi)害などで、何度も破壊され、そのつど修復(fù)や立て直しが行われましたが、今もだいたい明代の風(fēng)格をたもっています。14年の歳月と20萬(wàn)人の労働力によって1420年に完成して以來(lái)、最後の皇帝溥儀(ふぎ)まで、明と清の両時(shí)代の皇帝24人の居城となり、宮廷が置かれていて、紫禁城とも呼ばれています。紫(むらさき)というのは紫宮(しきゅう)ということですが、紫宮とは天の中央にある星で、天の神のいるところと昔の中國(guó)の人は思っていました(実は北極星を指しています)。それで皇帝が自分の宮殿に紫禁城(しきんじょう)と名づけたのも、皇帝は天の神のいるところに生きているという意味なのです!附工弦话悚稳摔膜毪长趣蚪工工胍馕钉扦埂
紫禁城の敷地(しきち)面積は712ヘクタール、南北の奧行きは960メートル、東西の幅は750メートルで、周?chē)欷细撙?0メートルの城壁で囲まれています。城壁の外側(cè)には幅52メートルの堀があり、俗に「筒子河(トンズホ)」と呼ばれています。つまり筒(つつ)のように丸く一周する堀という意味です。建築面積は16.5萬(wàn)平方メートル、700あまりの建築物と約9000の部屋があります。これは柱と柱の間を1間(ひとま)と數(shù)えています。我が國(guó)では現(xiàn)在完全に保存されている最大の古い建築物です。
故宮は主に「前朝(ぜんちょう)」と「內(nèi)廷(ないてい)」に分かれています。歴代の皇帝が儀式や祝典など対外的な政務(wù)を取り仕切ったところが前朝で、太和殿、中和殿、保和殿の三殿を中心とした公(おおやけ)の場(chǎng)です!竷(nèi)廷」は乾清宮(けんせいきゅう)、交泰殿(こうたいでん)、坤寧宮(こんねいきゅう)及び御花園(ぎょかえん)を中心として両側(cè)に東西六宮などの宮殿が立ち並んでいます。皇帝と皇后、妃、王子(おうじ)たちの日常生活の場(chǎng)所でした。伝統(tǒng)劇の中での「三宮六院」(さんきゅうろくいん)という言葉はこの內(nèi)廷に由來(lái)しています。
「外東路見(jiàn)學(xué)コース」、「東路見(jiàn)學(xué)コース」、「西路見(jiàn)學(xué)コース」は故宮の中軸線の両側(cè)を歩くコースで、それぞれ「西六宮」、「東六宮」などが見(jiàn)學(xué)できます、これらの建物の中では、當(dāng)時(shí)の妃、嬪(ひん)(妃よりも地位の低い宮女)らが生活しており、興味深い數(shù)多くの後宮(こうきゅう)物語(yǔ)がこれらの建物とともに広く伝えられています。
故宮で開(kāi)放されている地域は5つの見(jiàn)學(xué)コースに分けられます。それは「中路見(jiàn)學(xué)コース」、「外東路見(jiàn)學(xué)コース」、「東路見(jiàn)學(xué)コース」、「內(nèi)西路見(jiàn)學(xué)コース」、「外西路見(jiàn)學(xué)コース」です。
今日の故宮見(jiàn)學(xué)の中でも主なコースとなっています。これから見(jiàn)學(xué)しながら少しずつご紹介します。まず一番重要な中路見(jiàn)學(xué)コースです。
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